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  • 9月
    17

    聖マルコの仔獅子号航海記の覚書2

    老いると生々しい生きた記憶は、乾いた白砂のように変わる。
    そう、美しい軽やかなものに変わり果てる。
    虹色に輝く貝殻の混じった白砂だ。
    私の駈けた海。
    それは、老いた私の記憶の中では、蒼く晴れやかに、あるときは緑に輝き、またある日には白銀のように冷たく鋭く、そして、鈍い鉛のように意地悪く面妖だった。
    朝は紅に染まり、夕は橙に暮れる。
    どの海も、宝玉を溶かし込んだ酒のような芳醇さを漂わせている。
    美しい海だ。
    陸の存在を忘れたような大海原であった大嵐の記憶でさえ懐かしい。
    狂った海に突き刺さる青く輝く稲妻を見、海面を裂く轟音を聞いた記憶は、今では大天使ミカエルの振るう裁き剣の閃きを見たような気がして、畏敬と驚嘆の念~感動しか残っていない。
    大雲の中を走る雷光は荒れ狂う東洋の竜のように勇壮だった。
    なんと美しく驚嘆すべき海。
    だが、若き私が書き記した記録は、海は断じて美しいだけの存在ではないことが明記されている。
    老いた私の記憶~芳醇に熟成した甘い記憶を、若き私の覚書によって批判し、できうるかぎり事実だけを記そうと思う。
    塵は塵に、灰は灰に、あるがままに、正しく事実を記録しようと勤めようと思う。
    この記録は単純な記録ではなく、老いた私と、若き私の対話でもあるのである。

    ~聖マルコの仔獅子号航海記前文より~

    ———————————-
    私の祖先は幾度もアフリカ商用旅行を繰り返し、ある程度の財力を整えると、出資者を募り自らも大金を出して、大型船を建造した。
    当時欧州で最大の造船所であるヴェネツィアの国営造船所に発注を出すが、時はオスマン・トルコの攻勢期にあたり、戦闘用ガレー建造するのに忙しいため、ドックに空きが無く、断られると、しかたがなく海外に発注している。
    航海記には詳しく記述されていないが、このときの発注書が残っている。
    商用に特化した設計を指示しているが、砲数は三十二門と重武装であり、船員の数も、必要最低限の人数ではない、以前と比べての倍近いの四十名となっている。
    また、船員のもつ武器も、今までの石弓ではなく、銃となっている。
    これは、レパントの海戦以降のヴェネツィア商船の方向性と一致し、当時の流行であったと言えるだろう。
    数ヶ月の後、バレンシアの造船所にて祖先の大型船の建造と艤装が完了し、引き渡された。
    当所は「聖母マリアの慈悲深き指先号」と命名されていたようだが、ヴェネツィアに回航され後、その船は、今までの中型の帆船と同じ「聖マルコの仔獅子号」と命名され、ヴェネツィア政府に登録された。
    古い船はヴェネツィア政府に売却されている。

    以下の覚書は、以前の覚書からおおよそ五年から八年の後の記録である。
    ——————————————
    今日、喜望峰に到達した。
    噂どおり「咆哮する海」だ。
    天まで持ち上げられたかと思うと、地獄の門を擦るほど低くに落ちる。
    ケープ植民地までは、よく知った海だったが、まるで別の人間のようだ。
    これに比べると、地中海は辺境の穏やかで甘い水溜りだ。

    ソファラに寄港。
    うらぶれた港だが、金が出る。
    買い付けは成功。
    羊の串焼きには飽きた。

    ポルトガル領モザンビークに寄港。
    ここで長め休養をとった。
    かの地で売るための産物を買い足す。
    茶というものは少量、商品として卸したことはあるが、飲んだのは初めてだ。
    アーモンド水よりも香りよく、意識をはっきりとさせる。
    大評議会の前に議員全員に飲ませるとよい。
    魚屋の呼び声は連続で十二回までという法令を討議する暇はないと気がつくだろう。

    マダガスカル沖にて嵐。
    座礁した。
    雲行きが怪しくなってきたため、避難するための入り江を探していたのがかえって悪かった。
    船底に亀裂が入り、海水が吹き出て一部の商品がだめになる。
    船員の三人が海になげだされ、瞬き一つのうちに消えた。
    水と食料は十分にある。
    補修のための材木も十分だった。
    嵐は二日二晩吹き荒れたが、準備のおかげで私はこれを書いている。

    我が船員の奮闘と、聖マルコに限りない感謝を捧げる。

    空模様がまだかなり怪しく、海も時化ていたが、帆をあげ、付近を捜索した。
    結果みつからず、船付の修道士に葬儀を指示した。
    三人の荷物を確認。
    一番若いジョヴァンニ・ダ・アンコナの荷物は、あまりできのよくないガラスの香水瓶一ダース※1と、シャツが二枚、ナイフ、質の悪い羊皮紙の束だった。それには俗語で簡単な日誌が書かれていた。
    ミケーレ・ヴォーナは、サテンが二反、シャツ六枚、下着六枚、ナイフ四本、靴二足、シロップ二瓶。
    マテオ・バッジョは、オレンジの香油の小瓶二ダースと、シャツ四枚、サンダル、塩の塊。
    この遺品は副官と最年長船員の確認の元、私が保管し、帰国の後、遺族に引き渡される。
    政府に遺族年金を申請するときの気分ほど、最低な気分はない。
    想像しただけでも、気がめいる。

    モガディシオに寄港。
    目になれた建築様式が目立つと思ったら、イスラームの影響下にある町だ。
    何人かのアラブ商人と茶を酌み交わし、話し込む。
    この先の諸都市では、乳香の値段が下がっているとのこと。※2
    わけのわからない言葉を話す真っ黒な現地の人間よりも、遥かに親しみがある。
    アレクサンドリアのバザールの西にある旨い飯屋の話で盛り上がった。

    マスカットに寄港。
    発達した港で、欧州の商人と、イスラーム教徒の商人が混在して大商が行われている。
    乳香は量も大変豊富で、質もすばらしい。
    しかも、値段は聞いていた値段より下がっていた。
    北の商人が四苦八苦している横で、私は使い慣れたアラビア語で、大幅な値引きまで成功させた上、商談を実に簡単にまとめた。
    余った時間で町見物と洒落込んだ。

    ペン先が震えているのがわかる。
    インド。
    なんと甘い響きだろう。
    そう、私はインドにいる。
    インドだ。
    何度書いても飽きない。
    インド、インド、インド!
    うるわしの緑に輝くカリカット!
    現地に駐在しているヴェネツィアの役人に挨拶をすませると、私は勇んでバザールに向かった。
    そうだ。
    この市には、胡椒が、まるで、小麦や豚肉のように、ワインや付近の山からとれた茸のように、当たり前に、ぞんざいに、商われている!
    欧州では、小麦が数粒地面に落ちても、たいして誰も気にしないだろう。
    それが香辛料ならどうだろうか。
    つまり、そういうことなのだ。
    話に聞くのと、じっさい見るのでは大違いだ。
    さっそく現地の商人と商談に入った。
    アラビアで買い求めた産物、遠く欧州の産物はとても人気で、とくに、ムラーノのガラス細工は高値中の高値をよび、瞬く間に売れた。
    何箱あっても売れてしまうだろう。
    意地悪で狡猾で強欲なルカ・トリニーニに天の父の恵みがあらんことを。※3
    その利益で、私は、インドの物産を買いあさった。
    胡椒、クミン、カルダモン、シナモン、ジョーセットよりも軽く豪奢な更紗、高貴な香りの白檀、海が溶け込んだような碧玉、鳩の血のような紅玉…
    それがすべて驚くほど安いのだ。
    飽きることなく市をまわった。

    インドの船大工はよい腕をしている。
    私の船はすっかり整備され、船出を待つばかりに仕上がっている。
    荷は厳重に梱包され、副官が数を何度も確認している。
    船員もすっかり休養をとり、馬鹿なルイジが泣きながらインド女との別れを惜しんでいた。
    香辛料を多量に贅沢に使用した料理にも飽きてきた。
    待っていた風の季節だ。
    船出の日取りを決めた。
    ————————————–
    祖先のインド商用旅行は大成功に終わり、その利益で船の建造費を完済している。
    二年にわたる大航海であったが、この時代のヴェネツィア人は平気で四~五年海外に出たまま商売をするのが普通であり、祖先はよく本国に帰ってくる類の人間であったと思われる。
    帰国して越冬し、老いた父母の薦めで、遠縁の女性と結婚した。
    新造したばかりの船は春を待ち、またすぐに船出した。
    新婚生活は四ヶ月だった。

    ※1・ヴェネツィア船では、船員も交易する権利を保障されていた。
    ※2・強く三度アンダーラインが引かれている。
    ※3・ガラス細工職人組合の委員。航海記には無いが覚書では、原料の高騰を理由に平時より二割高い値を提示され、言い合いとなり、掴みあいの喧嘩寸前にまでなっている。

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